KONICAの残像:1

REVUEFLEX AC1が来たので、Pentaflex-Color 2.8/50の試写でもするかと勇んでいたら、冷蔵庫に保存しているSINBIが残り2本になってしまった。

思えば長い付き合いだったなぁ?、KONICAのフィルム。

初めて”カメラ”に触れ”写真”を撮った記憶は小学3年頃のだったかな、その頃はコニカC35、コニカAUTO110、サクラパック400等、家にゴロゴロ有ったコニカのコンパクトカメラを片手に駅へGO!

勿論カメラの性能などには一切興味などなく、只々鉄道の写真を撮るための道具としての認識しかなかったし写真が撮れればカメラなんざKONICAだろうがヘッタクレだろうが何でも良かった。

しかしフィルムはサクラカラーと決めていた、ネガカラーはサクラカラーII(だったかな?)白黒はサクラパン100、これ以外は使ってはならないと固く心に決め、出掛けた先でオレンジ色のパッケージが売っていない時には写真を撮る事さえしなかったもんだ。
(予めお断り申し上げておきますが、私は社員でも関係者でも、カメラ屋さんでも何でもありません。)

それ以来30年以上、一貫して使い続けてきたKONICAのフィルムともお別れなのかと思うと、やっぱり感慨深いものがあるな。

題名を”さらば!KONICA”にしようとしたんだけれど、目の前にあるカメラ・レンズは何かな、と天の声。
そう言えばそうだ、さらばと言うにはチト早すぎだな。
初めて一眼レフを手にし始めたのもやはり小学3年生の頃だった。

当時使っていたコンパクトカメラでさえ、構図やブレでロクな写真が取れていなかった小学生時代。

親父が撮った写真との差は歴然で、幼い頭で「これはカメラの所為に違いない」と考えていた。

或る日、意を決して親父のカメラを勝手に持ち出した。

そのカメラはKONICA FTA、レンズはHEXANON 57mm f1.4とHEXANON(Pri-set)135mm f3.5の二本、当時はそれが手振れをおこさない”魔法のカメラシステム”に見えたもんだった。

幼いとはいえ浅はかなもんだ、餓鬼の手には大きく重い金属製一眼レフ、且つ異様にシャッターストロークが長いFTAのこと、見るも無残な写真が撮れましたよ。

それでも懲りずに以降も勝手にFTAを持ち出し、近くの駅で一心不乱に手ブレ写真を量産していた。

理由は簡単、なにしろ多くの友人達はハーフのコンパクトカメラを使っていた時分に、一眼レフを振り回していた餓鬼は自分とお金持ちのもう一人だけだったのだ。

家はあまり裕福ではなかったが、そん時だけは得も言えぬ優越感を味わえた。

しかし、撮った後が問題で流石に現像には困った。

幸い家には、諸般の事情で期限切れ間近のサクラカラーIIが腐るほど有ったのでフイルムには困らなかったが、何しろカメラを黙って拝借していたので現像を親にお願いすることが非常に困難だったのだ。
(繰り返しますが、私は社員でも関係者でも、カメラ屋さんでも何でもないです。)

その後中学に入り「電車も無いだろう」と興味の対象が他に移り始め、カメラを持ち出す機会が急速に減ってしまった。

高校に入って直ぐにFS-1フルセット(リモートコントローラー、ホルスター等)を手に入れたが、友人とのスナップ写真以外での出番は全くなかった。

再び写真に対する興味が湧いたのは29歳の頃からだったかな?ドライブ中にAIBORGを無くした反動からか、はたまた徐々に減っていく収入のためエントリー出来なくなったラリーの代替え趣味のためか、異様にカメラが欲しくなってしまい中古のMINOLTA α303si superを手に入れた。

ラリー参加資金が枯渇してしまいオフィシャルでの関わりが増え、その特権を生かして全日本ラリ?選手権の写真や所属チームのイベントなどを撮っていた。

カメラはMINOLTAでもフィルムは勿論KONICA。(意固地

しかし!AF機の使い方が余りよくわからなかったこともあり、マニュアル機が欲しいなぁと思い始めた時ふと思い出したのが餓鬼の頃に使っていた”魔法のカメラシステム”。そこで実家からFTAとFS-1それとHENANON AR 40mmf1.8・57mmf1.4・HEXANON(Pri-set)135mmf3.5をサルベージしてきたのだ。

久々に使った”魔法のカメラシステム”、餓鬼の頃にはわからなかったフワッとボケる優しい描写のHEXANONに嵌ってしまい、KONICA収集の沼へ突き進んでしまった。

高価なものは買えないけどね。(泣

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